カゲナシ*横町 - アカツキ流転
□ アカツキ流転 □


第五部  畔ニテ

 じんじんと、側頭部が痛む。あと、妙に胸から腹にかけての広い部分が圧迫されていて、呼吸が苦しい。

(ん……?)

 何度か瞼をまたたかせて、蓮火は頭を押さえた。背中側がぐっしょりと濡れていて、どうやら湿地帯に寝かされているようだと理解する。

「何だって、こんなとこ、にっ!?」

 軽く頭を上げて、絶句する。
 重くて苦しくてしょうがないと思っていたのは、力なく彼女の上に覆い被さっていた呂迅の体で、意識は欠片もあるようには見えなかった。呼吸も脈も正常だが、血の気のない顔色で、うっすら汗を掻いている。
 ではなく。

「どどどどけぇえええええっっ!!?」
「ぶぐっ」

 思わず、息を荒らげながら彼を投げ飛ばした。さらに頭痛がひどくなったが、目をつむり歯を食いしばっているうちに、落ち着いた。もう一度頭を振って、蓮火は目の前で、今度は仰向けになって倒れたままの呂迅を見下ろす。
 彼女の上に寝ていたからか、彼の外套にほとんど湿り気はなかった。そのことに苛立ちを交えて舌打ちをしつつ、蓮火はざっと周囲の状況を確認した。
 泉とも沼ともつかぬ、少々濁った色の水が溜まった場所の畔で、見える範囲に花はなく、ただただ適当に日光を求める雑草ばかりが生えている。人の手が入れられている風でもなし、完全に山奥の雰囲気だった。

「ここはどこだ……あのとき、こいつは確か」

『飛ぶ』


 そう、飛ぶと言っていたのだ、彼は。実際その一秒後、重い衝撃と共に自分の体重が空へ持って行かれるような、不思議な感覚を味わったのだが、そこまで思い出したところで、蓮火はぶるりと全身を震わせた。
 あの奇妙な感覚に対する恐怖も理由ではあるが、薄暗い泉の畔で、湿気った服をまとっているせいでもある。無駄だと思いつつ、だぶだぶと気持ちの悪い手触りになってしまっている服の上から、手のひらでこすって温めようとする。

「あー、でも、こいつもこのままじゃ」

 蓮火は顔をしかめたまま、もう一度呂迅の顔をのぞき込んだ。とりあえず顔の汗だけでも拭ってやろうと、何かちょうど良い大きさの布は無かったかと首をかしげる。そこで彼女はおもむろに、髪をまとめている絹布に手をかけた。

「ま、外側を使えばいいだろう」

 布を外すと同時に組み紐もほどけ、後頭部より少し高い位置でお団子になっていた髪がおろされる。意外にも、背中の半ば程まで伸びていたそれを鬱陶しげに払い除けながら、蓮火は布を丁寧にたたみ、呂迅の顔を拭い始めた。
 首筋の汗も拭ったところで、呂迅が眉をひそめ苦悶の声を上げたので、一旦手を止める。

「呂迅、解るか? 私だ」

 ぴたぴたと頬を叩きながら、蓮火は他に己に出来そうなことを思案する。そこで、呂迅の腰帯にくくりつけられていた竹筒が目につき、勝手ながら、中の水を少し拝借する。
 たたみ直した布に水をしみこませ、ゆっくりと呂迅の唇を湿らせる。それを何度か繰り返していると、小さなため息を共に呂迅が目を覚ました。

「……蓮、火か。お前、大丈夫か」
「いやそれは完全にこちらの台詞だが。まだ幽鬼のような顔色だぞ、寝ていればいい」
「そうもいかない。くそ、力に制限があるというのも面倒なものだ」

 心底忌々しそうにつぶやくと、呂迅は止める蓮火を押しのけ、そのまま上体を起こした。

「行くぞ」
「は? い、いや、だからどこへ? 私も官吏の端くれとして、それなりに医学の書物とかも読んだりしているが、そういうのなくても分かる、お前絶対気を失う寸前だろう。無茶は」
「不老不死のことで、あんたや苑染のことを知らせておかなくちゃいけないヤツがいる。それに、あんたの不老不死探しにも一役買ってくれるだろうしな」
「……不老不死、なんだな? 本当に」
「ん? ああ、自分か。そうだな。そうなる」

 すでに苑染がばらし、その身がすぐさま再生する様を見られたためか、呂迅は特に言いよどむこともなく、ごく普通に蓮火の言葉を肯定した。その淡々とした様子に、蓮火は僅かに眉根を寄せる。
 そして、しばらく二人の間に沈黙が訪れた。行くぞ、と言っておきながら、やはり体調が万全でないせいか、呂迅は立ち上がろうとしない。蓮火も座り込んだままの彼の隣で、中途半端に膝をついた姿勢で固まっている。

「あ?」

 と、突然蓮火がぽすぽすと呂迅の背中を叩き始めた。一瞬ぽかんとした呂迅だが、呆れたような笑いを浮かべて、からかい口調で声をかける。

「なんだ、自分の体になにか興味でも?」
「その言い方は妙にいやらしいから止めろっ! いや、最初に野盗に襲われたとき、な……」

 そこで口をつぐむ蓮火を見て、呂迅は「ああ」と納得の声を上げる。苑染と対峙する寸前、背骨を砕かれた云々で彼女に喚かれたのを思い出した。

「そっちも、不死の力でもうとっくに治っている。さすがに即死だったし、何度も殴られたせいですぐにとはいかなかったがな」
「あのとき、突然武器を捨てたのは、演技とかじゃなく……?」
「限界だったんだ。あのまま戦い続けていたら、俺の足か腕が千切れていた。苑染と戦ったときも、あんたが間に入らなければ危なかった。……助かったよ、正直」
「いや、まあ、どういたしまして。えー、と、そんなふうに突然強くなったりするのも、不老不死の力なのか?」
「まあ、関係あるかと言われれば関係はあるが、俺自身にもよく分からん。むしろ、俺があんたを連れて行こうとしたところにいるヤツのほうが、よく分かっているかもな」

 そこまで言って、呂迅は一度目を閉じた。蓮火は彼から目を離し、これからどうしよういやどうしようもないなコイツについていかなかったら山の中で遭難して終わりだ、とあっさり結論を出す。小さく何度か頷いて、最終的にため息をついた。

「こうなったら、私はもうお前についていくしかなさそうだ……とりあえず、呂迅、お前の調子がよくなったら、その不老不死のことを知っているヤツの所へ私を連れて行くのだろう? だったら、もうそれでいい」

 もう、かなり投げやりだった。
 その時、一切呂迅の方を見ずに言い切ったので、蓮火は彼の表情の変化を見過ごしていた。

「……蓮火」
「なんだ。ここまできて素直になったら山の中へ置いていくと言ったら、死ぬまで殺すぞ」
「台詞が本気だな……いや、お前は多分大丈夫だから、連れて行くが」

 なにやら、躊躇いがちな口調である。苛々してきた蓮火は、きっと鋭く彼を睨みつける。

「一体なんだ。はっっっきり言ったらどう……っ」
「髪」

 ……は?
 きょとんとして、蓮火は目を丸くし、さらりと肩から流れていく自分の髪を見下ろす。別にどうってこともない、むしろまわりの良家の子女より手入れを怠っているため、あまり綺麗だとも思っていない平々凡々な黒髪である。

「町娘のは、少し埃とか、砂とかがついているし、たまに見かける貴族の娘などは己の父や祖父のように髪がぴかぴかしていたから」
「ああ、貧しい者はなかなか風呂に入れないからな。あとその髪がぴかぴかというのは頭がぴかぴかというのと同列に考えているのか!? あれは香油だ! 私はつけないから最近の流行りかは知らんがっ。ふん、どうせ私の髪など、全っ然綺麗じゃないだろう」
「ああ、あんなもの、別につけていなくても……」

 すい、と呂迅の手が、蓮火の髪を一房すくい上げる。

「……こちらの方が、美しいと思うが」

 それをそのまま自身の口元すれすれのところまで近づける。先ほどまでまとめて絹布で覆っていたからか、埃のにおいも、彼女の言う香油の匂いも一切しない。代わりに、彼女自身の柔らかな匂いが漂う。

「な、ばっ!? い、いいいあそれ放せ! 放せってば!」
「ああ」

 顔を真っ赤にさせて髪をまとめようとする蓮火に、呂迅は薄く笑って、髪を手放してやる。しかし、今度は彼女の腰に手を回し、そのまますっぽりと抱き寄せてしまう。少し前、苑染を倒したあとの体勢と同じ格好になり、蓮火は呆然とする。

「お、おまえ、いったい、なに?」
「いや、自分でもよく分からないが……」

 あまり、彼女のような人間とまともに触れあったことが、ここ『数百年』なかったからだろうか、と小さく首をかしげ、すぐに否定する。何を犠牲にしてでも、と血眼になって不老不死の秘術を求めていた者達以外にも、彼女のようにごくごく平凡で、温かな人々と交流はしてきた。
 それとは、また違う感覚。

(ああ、ひょっとして)
「こうすると、落ち着く」
「……はっ、私は子どもじゃない。この状況はむしろ落ち着かない。というわけで離れろっ」
「いや、あんたじゃなくて、俺がだ」

 ふと、自分の口から零れた言葉に、呂迅は口を押さえた。今、自分のことを『俺』と言ったか?
 見下ろしてみれば、蓮火がこれ以上ないほど目を見開き、顔をゆでだこのようにして硬直している。その様子がずいぶんと面白くて、呂迅はさらに彼女を引き寄せた。一度大きく震えただけで、蓮火はもう暴れようともしない。

『呂迅、お前さ、絶対自分と正反対の子に惚れるね。無愛想で無表情でぶっきらぼう極まりないお前と真っ向から向き合ってくれる人。ま、そんな物好きな人がいたら盛大に笑ってやるけど』

「……さて、行くか」
「はへ? え、はぁっ!?」

 呂迅は素早く、抱きしめていた蓮火の体を横抱きにして、しっかりとした足取りで立ち上がった。

「さっきは力尽きてこんなところに落ちたが、次はいけるだろう」
「ちょ、ちょっと待て! 何かいろいろ消化不良なことばかり続いていてあああ頭がどうにかなりそう……!」
「安心しろ、そこら辺については、向こうについてから教えてやる」
「だっ」

 がくん、と全身が揺れる。奇妙な浮遊感を感じると共に、蓮火は強く目を閉じたが、やがてゆっくりと開き、薄く笑う。

(いや、いやいや、あり得ない。本当に、あり得ない。人間が空を飛ぶなんて、そんなこと)

 やがて状況は、彼女の脳の処理範囲を越え、蓮火はとりあえず手っ取り早い行動をとった。つまり。
 また、気絶してしまった。
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素材提供 : 花うさぎ