STRANGE - カゲナシ*横町



S T R A N G E




□ 第四巻 賢き獣の宴 - 第三章 8.暴れ馬
町中が大混乱、阿鼻叫喚の地獄絵図と化している中で、その男は一人すべてのことが始まったであろうその場所に、ふらーりとたどり着いていた。

「誰もいねぇかー。一体なんだってんだぁ?」

気だるげな表情に、それと同じくらい気だるげな声。ボサボサの茶髪をさらにかき回して、鉄棒を構えた男ケゼンは、さくさくと町長宅の庭を散策していた。

「ったく、突然へんてこな化け物がほいほいわき出てきやがるし、興行は完璧に潰れるし、あーあ酒が不味くなる。そういやステントラのヤツも見かけないなー」

独り言にしてはいささか大きすぎる声を発しながら、ケゼンは「それでここはどこだっけ?」と考えながら、木々の間を軽い足取りで歩いていた。
のんびりと広場で旅芸人一座の興行を眺めていた彼だったが、突然の動物凶暴化、それに続いて魔獣の出現と、最早興行どころではない状況になってしまった。幸か不幸か『ガレアン』にも顔と実力をしっかり覚えられていたため、適当に魔獣を何体か相手にさせられたりと面倒ごとにも巻き込まれている。
そして、その魔獣と追いかけっこをし続けた結果、適当なところに鉄棒を叩き込んだら今まで手応えが無かったのが嘘のように、あっさりと動物に戻ってしまった。気絶した動物が可哀想でしばらく介抱していたのだが、意識が戻った瞬間逃げられて・・・・。

「あ、その動物探して、俺こんなとこにいるんだっけ」

ぽん、と手を合わせて、お気楽野性人なケゼンは嬉しげに何度も頷いた。しかしすぐにまた面倒くさそうな表情に戻り、どはぁと深いため息をつく。

「あー、なーんかヤだなーここ。ウザい匂いがぷんぷんするし、ていうか怖い・・・・?」

そこでふと、ケゼンは顔を上げた。どこか困惑したようなその顔で、じーっと肩に担いでいる鉄棒を見る。

「怖い? あれ、俺って怖いなんて思うよーなキャラだったっけ?」

ケゼンの恐怖は、人間としての本能的なものに通じる。うーっとひとしきり唸ってみて、沈黙数秒、ケゼンは顔を真っ赤にさせて耳を両手で塞ぎ、地団駄を踏み始めた。

「だーっもう知るかっ!! 俺は基本だらーっと過ごせりゃいい! うし、楽しく生きれればいいんだからなっ! わけが分からんときには笑うに限る!! だはーはははははっ!! ・・・・はぁ」

一気に高ぶったテンションを急降下させて、ケゼンはまたブツブツと何かをつぶやきながら茂みをかき分けた。その向こうに。

「んあ?」

空の檻が、いくつも並んでいた。
しかも、その檻はただ空っぽなわけではなく、格子も錠もすべてがそこらの石クズのように砕かれていた。

「なーんだこりゃ・・・・あ、ひょっとしてこれ、今逃げてるっていう一座の動物のか? そんならココ、町長ん家ってことか」

ようやくそれに気がついて、ケゼンは一人頷く。と、そこで壊された檻を叩いたり撫でたりしていた手が、びくりと震えた。
眉をひそめて周囲を見渡してみれば、何か、この壊された檻よりもさらに奥に、まだ気配がある。
そろりそろりとそちらへ近づく。すると、今度は全身が震えた。原因ははっきりとしている・・・・恐怖。

「馬?」

何重にも錠がかけられ、めちゃくちゃに格子が巡らされた、いささか不格好で巨大な檻の中に、一頭の馬が立っていた。漆黒の毛並みに、爛々と光る赤い眼が恐ろしい。ケゼンとその目が会った瞬間、ぶるるっといなないた。

(ちゃんと生き物だ・・・・ナイトメアとかじゃねぇな)

ケゼンはごくりと息を呑み、その馬が魔族の類ではなく、錠の構造からして一座の動物だと判断し、そろそろと近寄った。先ほどの壊された檻は普通に四角い箱形だったが、こちらは箱よりも底面のある球に近い。

「こんなん、あの馬車のどこに隠してたんだよ・・・・」

呆れを交えた口調でつぶやき、ケゼンは中にいる黒馬が自分に危害を加えられないことを確認し、その複雑な檻の方をまじまじと眺めた。こんがらがった糸のように見えるその格子の一本に、指をかすめる。
そこで。

『エイショウサイセイ・・・・振動伝播・施錠破壊・混乱発生』
「!?」

どこからともなく女の声が響いてきた。だが、その声よりもまず、ケゼンはビリーと同じように目の前の光景に言葉を失っていた。
ガシャガシャと、あれほど複雑に絡み合っていた格子が、錠が、砕けていく。
内なる恐怖が、解放される。

『―――――・・・・』

黒馬は口を開いたが、先ほどのいななきと違い、今度はそこからなんの音も聞こえてはこなかった。だが、ケゼンには分かる。声など聞かずとも、彼ならばその動物を見た瞬間、何を考えているかが理解できる。

『エイショウフゾク・・・・混乱加速』

また、あの声。ケゼンはそこでやっと、厳しい表情で周囲を見渡した。だが、どこにもその声の主らしい者の気配は感じ取れない。
そこで黒馬が動いた。のそり、と。赤い瞳で、ケゼンを見据える。そして、一気に駆けてきた。

「え、ちょ、待っ!?」

さすがにあんなでかい馬の馬蹄なんぞ受け止めきれません、と早口でつぶやき、とっさに鉄棒を振り上げた。ずん、とすさまじい重さが、両腕を伝い肩へ、そして足が地面を離れる。

「―――のわああああああああっっっ!!?」

背中からそのまま豪快に木に叩きつけられて、しかし一度咳き込んだだけですぐさま臨戦態勢を取ったケゼンは、きょとんとした表情でそちらを見つめた。
ケゼンを踏み台にした黒馬は、彼のことなどお構いなしに町長宅を全力疾走して逃げ出していった。



◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆



黒馬・・・・一座の動物の中でもくせ者な『暴れ馬』シュリンメルト。ちなみにシュリンが『蹄』、メルトが『暴力』という意味の古代語、なんていう馬は・・・・まぁ、見事に内面と合致していて。
そんな彼(?)は町長宅の裏口門をぶっちぎったあと、よだれを垂らしながら大通りを爆走していた。
町長宅は、街の中心から見てやや西側に寄った位置にある。その裏口門から繋がる道には、慌てふためいている幾人もの『ガレアン』隊員が、武器を構えていた。

「あの魔獣は!? 北通りのほうへ誘導し・・・・って、んなあおうっ!?」
「せ、先輩! なんですかぁこの馬鹿でかい馬!」

年若い隊員はあんぐりと口を開け、ぽろりと重要なアイテムであるはずの『鳥』をその手から取り落とした。そんな彼の胸に平手を決めて、先輩隊員はすぐさま後退する。

「お前が馬鹿だっ! これもひょっとしたら錯乱してるのかもしらんし、とっとと離脱・・・・」
「あっ明らかに目がイっておりますがー!!?」

怒鳴る先輩隊員の耳に、また別の隊員の絶叫が響いた。瞬間、視界が真っ暗になり、なにやら体がバラバラになったような感覚に陥る。絶賛混乱中だった先輩隊員だったが、そんな自分の周囲から悲鳴やら殴打音やらが聞こえてきて、死にものぐるいで手を動かす。

(なっ何が!)
「っぐへ!?」

途端、背中のど真ん中を力強く何か・・・・といっても明らかに馬の蹄で蹴りつけられ、隊員はそのまま気絶してしまった。
シュリンメルトが蹴散らした隊員たちは、客観的に見て、魔獣に追い回されているよりも格好悪い姿でその場にぶっ倒れていた。



◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆



「さて、これは一体どうしたことかな〜?」

ふわりと、少々クセのある黒髪をなびかせ、澄んだ水色の瞳を周囲に巡らせたその青年、『ガレアン』副リーダーの一人レイドは、とんとんと抜き身の剣を制服の肩に担ぎながら弾ませた。
その隣では、真っ白な長髪をきっちりと切りそろえている黒目の無表情な青年、もう一人の副リーダーであるカッティオが。
・・・・顔面蒼白なまま俯いていた。

「言っておくけど、同情なんて欠片もしようとも思わないよ? というか僕のこの軽口に付き合えないくらいひどいって、君一体どうしたのさ」
「・・・・とりあえず、黙っておけ」
「いやー黙りたくても口が勝手に動くんだよ、ほらこの状況だし」

すいーっと道化師めいた仕草で、レイドは仰向けた手のひらを肩の高さまで持ち上げ、横に滑らせた。 瞬間。

「「「副リーダー遊んでねぇで仕事しろーっっっ!!!」」」

本気の殺気がこめられた、複数の人間の声が響き渡った。あら、と笑顔は固定のまま、レイドは小さく首をかしげる。
彼らがいるのは、北通りの住宅街。貴族仕様の大型馬車なら、三台は悠々とすれ違えるほどの幅をもつその大通りのど真ん中で、彼らは三体の魔獣を相手にしていた。
先ほど連絡を入れた東通りの方は五体の魔獣を相手にしていたというから、あまり大したことがないように思われるが、いやはや、実は先ほどまでこの場には実に十数体もの魔獣が漂っていたのだ。魔法使用者は三名、うち一人はクルセイダーであるカッティオという、なんとも魔獣相手には不利な編制であったため、剣や棍棒己の拳など、物理攻撃を得意とする隊員たちは、そんな三人の盾となるべく魔獣に突撃し、華々しく散っている。・・・・吹っ飛ばされただけで、やはり変人と称される隊員たちの息は止まっていないが。

「いや、僕だって一応ナイトの職だし? それなりに魔力の繰り方も学んではいるから、それなりに手伝ってるつもりだよ。でもねー、さすがにああ何度もスライス(かまいたち)が使えるわけじゃないし」
「・・・・はぁ」
「それになんと言っても、この戦闘可能メンバーがとうとう五人にまで減らされてしまったのは、他でもなく」

レイドはにんまりと笑みを浮かべ、振り返る。その視線の先では、最早焦点の定かでない、いつになく不健康そうな(いつものことだが)表情のカッティオが立っている。

「この今までの偏食生活が祟って、こんな状況で貧血なんぞ起こしてしまったカッティオにあるね!」
「こんの色ボケ副リーダーッ!! あんたにも罪はあるでしょうが!」
「こっちが必死に不調のカッティオさんを援護してるってーのに、その人員次々と盾にして切り込んでいっちまってアンタ何考えてんですか!?」
「何って、せっかく魔獣の弱点・・・・腹部の黒い石っていうのが分かったんだから。有益な情報は利用すべきだよ」
「情報は有益ですがね、戦い方が無益ですよ! むしろマイナスですよ!!」

隊員たちは魔獣から繰り出される爪をかわし続けながら、レイドに対して罵詈雑言を吐き続けた。通常の職場なら即刻辞職ものな単語もあったが、言われている側は至って飄々としている。
そこで、一体の魔獣が勢いよくレイドの背後に向けて突っ込んできた。

「ぎょっきゅーっ!」
「変な鳴き声だねぇ」

身をかがませながら振り返り、担いでいた剣を地面と直角になるように、頭上に掲げる。突き出された六本のうち、何本かがかわしきれずレイドの制服を切り裂く。
しかし、レイドは笑っていた。無謀にもそのまま一歩踏み出し、一気に上昇して彼の頭上を通り過ぎようとする魔獣の腹部を、掲げていた剣で一刀両断する。ぱき、と薄氷が砕けるような音がした。

「ぎょ、ぎぐがががああああ」

奇声を発して魔獣は地に落ち、そのまましゅるしゅると縮んでしまい動物の姿に戻った。
力なく倒れ伏している小猿にはなんの興味も示さないまま、レイドはまたカッティオの隣に立った。カッティオはといえば、もはやクルセイダーとしての技どころか、まともに立つことすら難しいらしく始終ふらついている。

「ねぇ、君ホントにあほでしょ? 忙しかったからとかどこぞの学生みたいな理由で朝ご飯抜いてくるとか、君の場合死ぬと思うよ。炭水化物とキノコしか食べてないくせに」
「・・・・やかましい」

カッティオが青い顔で、いつもよりはずっと静かにゆっくりとしゃべっていたレイドにぼそりとつぶやく。その視線はレイド・・・・というより、レイドの周囲の空間をゆらゆらと行ったり来たりしている。

「ぐぎょがー」
「ほら魔獣来ちゃったし。あと二体だね〜でも面倒だねぇ本当」
「・・・・やかましい」
「ぎょぎっぎゃーっ!」

ぴくりと、カッティオの肩が震えた。ん?と首をかしげて、レイドは彼を眺める。残り二体の魔獣は、残っていた隊員を蹴散らしてこちらに突っ込んでくる。またひとつ、魔獣の奇声が上がり。

「やかましいと言ってんだろぉがあああっっっ!!?」
「カッティオがキレたぁああ!!? って、この状況でキレる君!?」

顔面すべての筋肉を引きつらせながら、レイドはとっさにカッティオの足下へ伏せた。
カッティオはもはや死人同然の顔色で、焦点が定まっていないのも相変わらずだが、ただひとつ・・・・上げられた顔に浮かぶ表情は、ただ憎悪。・・・・シリアスぶった描写だが、単に彼は魔獣の鳴き声に苛立って苛立って何かをぶっちぎってしまったというところある。何かとは? たぶん理性。

「詠唱省略、我が身を流るる神力の流れを我が剣に、不浄討滅(クルセイド)っっ!!」

以前トールの森で見せた鮮やかさとは違い、ただ乱暴に光の渦を絡ませたような状態の剣を、カッティオは魔獣に向けてかなり投げやりに振るった。神力の固まりである光の刃は、核となっていた石も一瞬で粒子ほどにまで分解してしまい、二体の魔獣は叫ぶこともなく地に落ちる。
魔術と違い、基本的には闇や魔の属性を持つものにしか作用しないはずの神法だが、カッティオの今の一撃は、ちょうど足下にいたレイドを除く隊員たち、周囲の瓦礫その他諸々もすべて吹っ飛ばしていた。

「す、すご・・・・ていうか馬鹿みたいな威力。って、カッティオー? 生きてる? 死んでるようにしか見えないけど立ってるってことは生きてるよね」
「・・・・ぜはー、ぜはー、ふぁー」
「ものすっごい息が荒いんだけど」

ぽんぽんと彼の背を叩き、柄にもないけどと小さくつぶやいて、レイドはカッティオの体を支えた。
寄りかかるものができたとたん、カッティオの全身の力が抜け、剣が地面に転がった。それでもまだ意識は手放していないらしく、顔を上げないまま何かぶつぶつ言っている。

「俺がなんでこんな色ボケサボり魔ガキ副リーダーに支えられてるんだ一体これはどうしたことだ畜生なんでこんな時に貧血なんぞ」
「はいラストの一言は自滅ものだからあえて突っ込ませてもらうよ」

さて、とカッティオを支えたまま、レイドは周囲を見渡した。先ほど吹っ飛ばされた隊員はまだ伸びているが、最初の方で散った隊員たちは意識を取り戻し始めている。この様子なら、なんとか他の隊員を抱えて支部に戻れるくらいは復活できるかな・・・・と一人頷いた。
そのとき。

ガッガッガッガッガッガッガッ・・・・ッッッ

「ん?」

『ガレアン』にはなじみ深い、馬蹄が地面を蹴る音が響いてきた。かなりの速度で、こちらに近づいてくる。

「なんだろ、『鳥』無くしたバカ隊員でもいるのかな?」

レイドは少し目を見張って、馬蹄の聞こえてくる方向にすっと視線を向けた。すると。

「ヴィウヒヒィイイイイイイインンンッッッ!!!」
「なぁ?」

見たこともない、巨大な黒馬が通りに飛び込んできた。レイドはもちろん、起き上がって周囲の状況を確認しようとしていた各隊員たちもあ然としている。
黒馬、シュリンメルトは一度立ち止まり、大きく鼻を鳴らしたかと思うと、その姿を消し去った。

「え、一体どこ・・・・」

思わずレイドは、その姿を『目』で追ってしまった。
ドッガンゴシャバキッバンドゴォッ!! と賑やかな音が響き、その音の合間に、レイドはカッティオ共々吹っ飛ばされた。ふわ〜っと宙を漂い、着地の姿勢もままならないまま地面にべしゃりと叩きつけられる。

「ご、ごほっ、あ、あれ・・・・な、に・・・・」
「し、るか・・・・」

副リーダー二人の意識は、そこであっさりばっつり途切れてしまった。



◆   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇   ◆



ドカドカガンガシャドゴオォッッッ!!
もはや彼の行く手を塞ぐ物はなし。シュリンメルトはただただ爆走を続けていた。

「だああっ誰だあの暴れ馬出したのだふぉうっ!?」
「いぎゃあ来ないでちょっとバカ馬あああ―――――れぇっっ!」

動物たちの保護のため、町の至る所に散っていた旅芸人たちも、彼の馬蹄には敵わない(当然)。
蹴散らされ吹っ飛ばされ死線を彷徨い、まさに死屍累々の地獄絵図。魔獣出現のときの混乱とは比べものにもならない。
そんな旅芸人たちの恐怖や戸惑いその他諸々の負の感情が伝播した、フィロットの町民たちも、また。

「うぎゃああっんだよテッドこんな化け物まで作ってやがったのかぁああ!?」
「生体実験反対ー!!」
「調教師呼べぇええ!!」
「無責任『ガレアン』往ねええ!」

・・・・旅芸人たちよりは、バリエーション豊かである。
さて、シュリンメルトが町内大爆走時間記録更新(?)を果たそうというところで、何かが眼前を横切った。それも、一度や二度ではない。何度も何度も、うっとうしい羽ばたきの音と共にそれは視界を遮ろうとしてくる。
首をふるってはたき落とそうと、僅かに頭を揺らした瞬間、足下に幾本かの矢が突き刺さった。その位置からして、人間であればただの牽制射撃であると理解できたかもしれない。だが。
シュリンメルトは敵意をむき出しにして一旦停止し、勢いよく前足を振り上げいなないた。

「・・・・あやー、ずいぶんと怒ってるなー。ガイルさんもこれくらい怒ってたんかな?」

と、そこで彼の進行方向に、ゆらりと小さな人影が現れた。小型の弓を、矢をつがえた状態で構えているその少年の肩に、鷹よりも一回りほど小さな、しかしよく似た特徴の鳥がとまる。

「なあ雨李、弓で攻撃するとなんかものすごーくヤバそうだから、怪我しない程度にがんばって?」
「くぅっ」

バッと翼を広げ、雨李は翔夜の肩から飛び立った。シュリンメルトはそれを正面から見据え、ガリガリと地面を蹴りつける。
一瞬姿の見えなくなった雨李が、突然空から急降下してきた。そのままシュリンメルトの額に、鋭いくちばしを打ち込む。怒り狂うシュリンメルトから逃げて、次は左前足、右・・・・。

「よーし、じゃ、このテッドさん特製麻酔吹き矢で、っと」

のんびりそれを離れたところで眺めていた翔夜は、いそいそと腰の革袋から小さな筒と鋭い針を取り出し、筒の中に針を慎重に入れて、シュリンメルトに狙いを定めた。
雨李が完全に、シュリンメルトのそばを離れた。

(今っ)

ふっと針が吹き出された。フィロット一のマッドサイエンティスト・テッド特製麻酔が丹念に塗り込められた針は、過たずシュリンメルトの腹部に突き刺さった。しかし、シュリンメルトは雨李の攻撃の方に気を取られていて、針が刺さったことにはほとんど気づいていない。
「さぁて、大体二十秒くらい、だっけ。じっくり待ってたら、危ないかな・・・・」

しばし沈黙。雨李はシュリンメルトの頭上で、未だその注意を引きつけている。
・・・・シュリンメルトは、一向に薬が効いているようには見えない。むしろ、興奮しているようにも。

「テッド薬間違えたんかなーこの期に及んでー! あっはっは・・・・って笑えねぇさすがに」

頬を引きつらせ、翔夜は雨李に撤退を命じた。雨李は翔夜から離れるように宙を飛び、やがて視界から消えた。素早く翔夜も物陰に隠れて、とっとと逃げる算段を立て始める。

「三十六計逃げるにしか」

しかし、人生そうそう甘くはない。売った側が、無傷で帰れる喧嘩はない。
ゴガッと石畳が吹っ飛ぶ音がした、思わず目を剥き、息を詰まらせる。確かに規格外な大きさの馬であるが、さすがに蹴り一発で石畳をはじき飛ばすなどあり得ない。

「あれも魔獣じゃ・・・・でも、すごい怖いし、あのふわもこな可愛い感じじゃないし。てか、見た目はあの馬の方が普通に魔物に見えるなぁ・・・・ん?」

と、そこで翔夜は言葉を切り、路地裏からそっと通りの方を伺った。そして、あちゃーと目を覆った。
先ほどまで翔夜がシュリンメルトと相対していたその場所に、治療班のミリル、ティルト、メミィがやってきていた。