□ 第四巻 賢き獣の宴 - 第四章 12.闇からの解放 乱暴な踏み込みをしたガイルは、その勢いのまま結界に向けて剣を叩きつけた。結界にその刀身が触れた瞬間、ごおっとすさまじい突風が庭園内を縦横無尽に吹き抜ける。 「っと、ガイル!?」 「む、無茶苦茶な霊力行使だよ。ていうかアレに近づいたら、僕たちでも」 エイルムがまだ引きつり気味の腹をさすりながら言った隣で、積み上げられたレンガの置物がすっぱりと斜めに斬り飛ばされた。 「・・・・ああなるね」 「それだきゃ勘弁、マジでっ!!」 ステントラも同じく腹をぎゅっと押さえながら、ずりずりと突風の吹き荒れる中心点、ガイルの立ち位置と距離を置く。走り回ったり乱射したり笑いすぎたりで、体力の限界だった。 と、ガイルが唐突に舌打ちをする。 「ちぃ」 ピッと首筋の辺りで音がしたかと思ったら、若草色の髪がばらけた。髪をくくっていた布はかまいたちによって細切れになり、ガイル自身の髪先も、いくつか斬り飛ばされていく。 「うわ怖っお化けー!!」 「だまれ厚化粧魔」 「ああそうアンタもぶっ殺してやるわ」 「・・・・低レベル」 ゴルセディオがつぶやいたのとほぼ同時に、結界が砕けた。横殴りの突風によろけながらも、ゴルセディオは長剣を構え一歩前に踏み出す。 そこに、すでにガイルの顔があった。 「・・・・っ」 「おそい」 お互い見開き合った目の色だけが視界を埋める。ゴルセディオは舌打ちを交えつつ、後退しながら突風の中で刃仕込みのブーメランを放った。それでも距離を離さずに、ガイルは追撃する。 「やっぱりネファンの方が鉄面皮だな。けど」 風をまとう刀身が、重量のある両刃の長剣に叩きつけられる。長剣は、いとも容易く折れ飛んだ。 「かぶりキャラはいらねぇ」 「知ったことか」 「ホントにな!? 今はキャラがどうのこうの言ってる場合じゃないってー!」 ステントラの渾身のツッコミも聞き流して、本気でどうでもよさそうにつぶやいたゴルセディオは、折れた長剣をガイルの足下に投げつけ、そのままバックステップで逃走した。勢いに任せてまた追撃をしようとしたガイルだったが、背後から、自身のかまいたちと異なる空を切る音が近づいてくる。 「ガイルっ!」 「!」 歯を食いしばり、ガイルは剣を下ろした。避けようにも、暴走した霊力行使による突風と出血のせいで判断が鈍った。本能のままに、剣を斜め後ろへ振り上げる。 がむしゃらに突き出された剣は、ガイルの背に迫ったブーメランに巻き込まれて遠くへはじき飛ばされた。太ももを投げられた剣がかすり、新しい赤が散る。 「・・・・もう限界、かな」 どちらかといえば冷たさの混じった声色で、ステントラがつぶやいた。それが聞こえたのか、否か、突然吹き荒れていた突風が収まった。あちらこちらに吹っ飛ばされて震えていたガレアン隊員たちも、ぞろぞろと顔を覗かせる。 エイルムは慣れない回復魔法を放とうと、自身の中で魔力を練った。だが、練ったそばから魔力が、掌をこぼれ落ちていく砂のように霧散してしまう。ごぼり、と喉の奥から血塊が溢れ出た。 こちらはずいぶん消耗しているというのに、向こうはまだ涼しい顔をしている。イルミカはシュリンメルトの上でニヤニヤ笑いを隠そうともしていないし、ゴルセディオは・・・・。 「え?」 片膝をついているガイルの数メートル先で、今まで無表情を貫いていたゴルセディオが眉根を寄せ、口を半開きにしていた。そして、のろのろとした動作で新たな武器、モーニングスターと奇妙な形をした剣・・・・鍔のない柄の両端からすらりとした刃の伸びている諸刃のショートソードを構えた。 「何? まだやる気ぃー?」 「るっせぇな。やる気があっちゃ悪いか」 ガイルは口の中で固まりかけた血を、べっと乱暴に吐き出して、ゆらりと立ち上がった。その姿を見て、ステントラは息を呑む。まさか、ここでまた立つとは思わなかった。だが。 (ほ、本気で怒ってる。本気で全部潰すつもりだーっ!!) 証拠に、消えたと思っていた霊力の流れが復活していた。エイルムは呆然と、場の空気とガイルの血まみれの背とを見比べる。 「嘘、だって、ガイル、こんな霊力・・・・持ってるわけない。今まで、全然」 そこでふと、エイルムの脳裏にこんな言葉がひらめいた。曰く『これは、本当に霊力か?』と。このティカにおける霊力というエネルギーは神力、魔力に属さないもので、地上の精霊が最も行使しやすい力、と定義されている。確かに、このガイルが風を操っている力は神力でも、魔力でもない。では、『なんだ』? 混乱するエイルムの独白を聞いて、ステントラは背筋を冷たいものが走ったように感じた。ばさばさとなびいている若草色を見て思うのは、驚愕と、恐怖と・・・・歓喜。 「邪魔だ。もう、面倒だ。全部」 そう言うなり、ガイルは今までの冴えた剣術とはまったく違う、乱暴な子どものような動作で片手をイルミカに向けた。途端、そこに急速に集められた霊力が何十、何百もの細やかなかまいたちの形になって、イルミカとシュリンメルトに殺到する。 イルミカは舌打ちをするヒマもなく、周囲に簡易の結界をはるだけで精一杯だった。結界が構築された一拍のち、かまいたちの猛攻が訪れる。 「ぐっ・・・・」 ただのナイトにしては、力の密度も、構成も、桁違いだった。いや、風のみとはいえここまで霊力を操ることの出来る神官やレンジャーも、なかなかいない。 「力比べなんて、あたしみたいなかよわーい女性にさせるもんじゃないわよ」 苦々しげにつぶやいて、イルミカはふと自分が座っているシュリンメルトの背を眺めた。次いで、にやりと笑みを浮かべる。イルミカの思考までとは言わずとも、その空気を感じ取ったのか、シュリンメルトは小さく震えた。 「ほら暴れ馬。その名にもっとふさわしい様子に、してあげようじゃないの」 そして、イルミカは銀色に発光して結界を支えていた両手のうち、左手の接続を切った。途端、精神負荷が増した。右手一本での結界維持に神経をすり減らしながらも、左手を胸の前に掲げ、ゆっくりと詠唱する。 「結晶集合・魔力付与・対象確定」 ぱきぱきと音を立てて、掌の上に薄く紫がかった、あの石の破片が形作られていく。魔獣の中に埋め込まれて砂のように砕かれた石が、イルミカの手元に集まってきていた。 「さあ、暴れなさい」 そしてイルミカは、ふわりと手元から浮かんだ石を握りしめ、その鋭く尖った部分をシュリンメルトの首筋に叩き込んだ。シュリンメルトの絶叫が、響き渡る。 「な、なんだぁ?」 間の抜けたガレアン隊員の声に次いで、ガイルはぴくりと反応を返した。かまいたちをさらに圧縮し、銃器の弾丸と同等以上の威力を付与させた。 しかし、それもイルミカの結界と共に弾け飛んだ。表情を欠片も変えずに、ガイルはだらりと腕を下ろす。彼の視線の先には、あの漆黒の暴れ馬が立っていた。その背には、より一層嫌らしい笑みを深めているイルミカが。 「なにをした」 「べっつにーぃ? いつものことよ、いつもの、ねっ!!」 瞬間、イルミカは乱暴にシュリンメルトのたてがみを引っ張った。いや、引き抜いたに近い。ぶちぶちと何十本ものたてがみが、シュリンメルトの首筋を離れる。暴れ馬はまた絶叫した。 「ヴィイヒヒヒイイイイイイイイッッッ」 「最低だね」 それを見たエイルムは、口元から血を滴らせながらイルミカを睨みつけた。と、その瞬間。 「蹴っ散らすわよぉおおお!!」 イルミカが少女のような甲高い声で叫んだ。瞬間、彼女の姿が馬の背から消える。さっとエイルムが視線を巡らせれば、ガイルと対峙しているゴルセディオのそばに、彼女はうっとりとした表情を浮かべて立っていた。 「げっ」 町長宅に飛び込んだときとは、比べものにならない凶暴さで駆け出したシュリンメルトを見て、ステントラは頬を引きつらせ身じろぐ。だが、無情にも蹄は振り下ろされた。 がっ、バキッ! 「ヴィヒヒィイイイッッ!!」 「・・・・ぐふ」 「っわーステントラぁ!? ちょっとこれはさすがにヤバイよね」 血みどろの手で口を押さえながら、もごもごとエイルムはつぶやいた。ぴくぴくと脳天に蹄のあとを遺して痙攣しているステントラを介抱しようにも、魔術も使えない、薬草も持っていないのでは意味がない。 と、耳元をひゅんっと風が吹き抜けた。きょとんとして顔をあげてみると、苛立ちの表情を浮かべているガイルと目があった。そんな彼のずっと後ろ、町長宅の玄関で、ドヴェリムが何事かを叫んでいる。 「え、ええい動物たちをあのように利用するとは、許されんことだぁ!! やはり、このわし自らが出向き制裁おっ!?」 「あー、父さんってばぁ、ぎっくり持ちなんだからやっぱ無理はゲンキンなのよ」 演説の途中で表情を凍らせ、腰に手をあててその場に崩れ落ちてしまったドヴェリムへ、ニナが面倒くさそうに肩を貸していた。ニナはそのまま奥へ引っ込もうとして、「あ」とつぶやき振り返る。 「ガイルとガレアンの皆さんー、この騒ぎの収拾、悪いけど頑張ってやってちょうだーい」 「な、投げやりだ。町長の娘投げやりだっ・・・・」 どこからか、ガレアン隊員らしき人間の絶望しかけた声が聞こえてきた。その方向へ暗殺用つや消し黒塗りナイフを三本ほど投げ込んで、ニナは本当に家の奥へ戻っていってしまった。 「だ、そうだけど・・・・ガイル」 「俺があの二人をやる。そこの黒服ども半数で、あのアホ馬止めろ」 「りょっ了解でぇありまーす!!」 ぎろ、とガイルに睨みつけられた、手近な場所にいた隊員たちはタイミングから角度まで完璧な敬礼を披露し、仲間と共にシュリンメルトの追跡を始めた。どやどやと騒ぎが収まり、ガレアンたちの人数がきっちり半数分減ったあと、町長宅前の庭園に重苦しい沈黙がおとずれた。 それを破ったのは、堪えきれないように笑い出したイルミカだった。 「さぁて、第二ラウンド、開始ってとこぉ? でもアンタ、そろそろ限界なんじゃないの。出血多量に無茶な霊力行使・・・・一秒後にぽっくり逝っててもおかしくないわ」 「だまれ」 突き抜けてしまったからか、先ほどからずいぶん端的なしゃべり方になっているガイルはイルミカとゴルセディオを見据えた。ひゅん、と風が巻き起こり、庭園の奥に吹っ飛ばされていた彼の剣が戻ってくる。手の内でその柄を弄んでいる間に、またガイルを中心にして霊力が強まった。 「死ぬ気でかかってくるってぇこと? ま、どーでもいいんだけど、ね! こっちとしては、とっととくたばってくれれば万々歳だわ!!」 イルミカはそんなガイルを見て、内心まだこんなに力が残っていたのかと戦慄しながら、ニヤリと嫌みな笑みを浮かべて、ゴルセディオと共に宙に浮かんだ。ガイルの頭上を飛び越え滑空し、庭園の奥・・・・旅芸人一座の動物たちの檻が置かれていた場所へ向かう。 風をまとったまま、ガイルは不機嫌そうに眉をひそめた。エイルムは彼の感情がいつまた爆発するかと、ハラハラしながらステントラに声をかける。 「ステントラ、生きてるー? というか意識ある?」 「・・・・一応」 「うわすごい、気絶はまぁしてても仕方ないかなって思ってたのに」 素直に感嘆の意を示すエイルムだったが、ふと視線をガイルに戻す。彼の視線はどこか遠くを見るかのように揺れていたが、不意にぴたりと止まった。 「いた」 そうつぶやくなり、ガイルの足下で土が爆ぜた。剣を握り直し、ガイルは姿勢を低めた。彼の体が、風の力で宙に浮かぶ。エイルムはイルミカと同じようにその力に圧倒され、その隣で、さらに嫌な予感をひしひしと感じていたステントラが叫んだ。 「ガイル頼むからその状態でこっちに絶対来るなよ来んな来ないで下さいー!!!?」 しかし、ああ無情。 「・・・・」 「あー」 ガイルは一切の表情を消し、突風をその身にまとって、イルミカたちとまったく同じ経路を飛んだ。しかし彼女たちほど高度は出ず、つまり、その突風にステントラ自身も巻き込まれると言うことで。 そして、さらに不運なことに突風にまかれ一瞬宙に浮かんだステントラの側頭部に、ガイルの膝蹴りが炸裂した。ごっ、と鈍い音と共に、若草色は姿を消す。本当に、あっという間に通り過ぎていってしまった。 それらの光景を眼前で見ていたエイルムは、けほけほとむせながら視線を宙にさまよわせた。そして、ゆっくりと言う。 「さて、どうしようか」 「なんでお前と俺との距離は二メートル足らずしか離れていないのに暴力系その他諸々がすべて俺に矛先を向けてきたのかが一番の疑問なんだが、とりあえず俺を助けろよ」 最早身じろぎ一つせずに、うつぶせの体勢のままステントラは一息に言い切った。 ティルーナは、空を見上げていた。頬を撫でる風が、心なしか温かく感じられる。けれど、実際には頬も指先も冷たくなっていた。 (なんなん、でしょうね) 郷愁、というのが当てはまりそうな複雑な感情が、胸の内の大部分を占めていた。だが、たかが一吹きの風で、なぜこのような想いを抱いているのか・・・・ティルーナには見当がつかなかった。 「ティルーナぁ? どうしたんだよ、ぼけっと突っ立って」 「私のどぉこがボケてツッパってんですかぁ?」 「な、なんか違ぇ。なんかものっそい聞き間違えてるぞティルーナ!?」 じりじりとにじり寄ってくる笑顔のティルーナから逃げて、アイルは盛大なため息をついた。 妙な緊張感を漂わせて相対する二人に、ベリアは楽しげに笑顔を向け、ビリーは戸惑いながら声をかけた。 「あの・・・・やっぱり、エイルムさんが待っててって言っていたとこにいれば」 「じっとしてるのなんか性に合わねーよ。エイルムだって、俺たちがじっとしてるなんてこれっぽっちも思ってないだろうしさ」 アイルの言葉に、ビリーは遠い目をした。南通りで人員整理をしていた隊員に自分たちを預ける際、その漆黒の瞳に諦めきったような、達観したような妙な感情を横切らせたのを彼は見ていた。あの魔術師は、こうなることを予測していたのだろうか。 四人は、エイルムによって南通りの『ガレアン』隊員に預けられたあと、三、四十分ほどは大人しくしていた。だが、突然町長宅付近に魔獣が集結、火柱が吹き上がる、果てには竜巻が発生するなど、彼らの好奇心を以上にくすぐる自体が起こり始めたため、隊員の目を欺き現場に急行していた。 「にしても、ドヴェリム町長の家、これでもうおしまいでしょうか? さすがに被害受けすぎですよ」 「いや、ドームのじっちゃん家はそう簡単にぶっ壊れねー。なんせ、姉ちゃんが『籠城するにもってこいですね』って断言したほどだからな」 「本当に頑丈だよね」 「・・・・どんな要塞なんですか、ここの町長さんの家は」 「敷地こそ一般家庭の何倍もありますけど、ぶっちゃけ見た目は玄関以外かなり繊細です」 ティルーナの言葉にけらけらと笑うアイルだったが、ふと視線を進行方向に向け、目を細めた。その隣でベリアも「あ」とつぶやき、アイルとティルーナの手にすがった。ティルーナとビリーは、眉をひそめて二人の視線の先を見る。 その先、通りの交差地点を曲がって現れたのは、舞台裏でビリーをいじめていた一座の少年少女たちだった。ばたばたと駆け抜けてきて、四人を見つけるなり露骨に嫌な顔をする。 「げ、お前ら」 「はん、ビリー、一座の一大事だっていうのに手伝いにも来ないで、ったく、やっぱいない方が楽だよ」 「手伝い・・・・?」 ビリーは不安げな声を出して、そっと小太鼓叩きの少年を伺う。少年は一瞬ティルーナとアイルの方を見たが、すぐビリーに視線を戻して嘲笑を浮かべながら答える。 「知らないのか! あっちこっちに、この町の動物に紛れて一座の動物も倒れてるんだよ。みんなで必死に集めてるっていうのに」 「そういえばシュリンメルトも逃げ出したって言うけど、またあんたが何か・・・・」 踊り役の少女の声が、途切れた。子供たちが沈黙する中、通りに響くのは高らかで、粗暴な蹄の音。 この場の誰よりも、人外やら死線やらと縁の深いフィロットっ子三人は、蹄の音が近づくほどに嫌な予感をひしひしと感じていた。並みの馬ではない。そんな空気が、離れていても感じられる。 「・・・・シュリンメルト?」 そんな緊迫した空気の中で、ぽつりとビリーがつぶやいた。その言葉に、一座の少年たちがあからさまにぎょっとする。 しかし、彼らが逃げるよりも速く、それはこの場に現れた。闇夜のごとき色合いの柔らかな毛並み、その下の引き締まった体躯に、いつも『ガレアン』の隊員たちが乗馬訓練をしているのを見ている三人は、思わず唸った。あの訓練で使われているどんな馬よりも、上等だ。 シュリンメルトは勢いよく地面を蹴りつけ、しきりに鼻を鳴らした。歯をむき出し、子供たちを威嚇する。一座の少年たちは、その迫力にぺたりと座り込んでしまった。中には、泣き出す者もいる。 「俺より年上だろー、そう簡単に泣いてんじゃねーよ」 呆れかえった様子で、大仰な手振りも交えて話すアイルに、あの小太鼓叩きの少年も嫌みを返せなかった。否、声を出すことすらできなかった。 ティルーナもアイルと同じように、一座の少年少女たちを情けないと思っていた。だが、それよりもこのような生き物とよく共に旅をしていたものだと、それ以上に感心した。彼らのようにへたり込むまではいかなくとも、三人はシュリンメルトの迫力にその場から動くことができなかった。 「シュリンメルト」 けれど、ただ一人。落ちこぼれと言われ続けていたビリーは、猛り狂っているシュリンメルトを恐れるどころか、笑顔すら浮かべて近づいていった。けれど、一歩近づく事に笑みは悲しみにすり替わっていく。 「一体、どうしたのさ。何があったの? どこが痛いの?」 小太鼓叩きの少年は、シュリンメルトのまさに鼻の先にまで近づいたビリーが、次の瞬間にその硬く重い蹄で頭蓋を踏み砕かれるだろうと思った。ビリーはゆっくりと、シュリンメルトの横面にそっと手を伸ばす。 まどろむように細められたシュリンメルトの目は、ビリーの手が触れるか触れないかという微妙なところでカッと見開かれ、狂気の炎を再度燃え上がらせた。甲高くいなないて、前足を振り上げる。 「ビリーさん!!」 ティルーナの焦る声が飛んできた。けれど、ビリーは動じない。頭上に構えられ、この一瞬後には自分の脳天めがけて振り下ろされるであろう蹄を、その向こうの赤い眼を、見て。 「フラヴァー」 ガガンッ! と。 左右の蹄が、ビリーのすぐ脇の石畳を抉っていた。ぶるぶると、足が震えている。 『・・・・ビリー』 「うん、約束破っちゃって、ゴメンね。でも、僕が他に呼べる名前、これしか見つからなかったから」 『いいや、感謝する。本当に、感謝する・・・・少し、正気に戻れた』 シュリンメルトは、ぐっと首をそらせて、咆吼した。大気が震え、自然の奏でる音が打ち消され、それはさながら、竜の。 「あ」 ビリーはそこで彼の首筋に、その毛並みとは異なる黒を宿した、うっすらと紫がかっている石を見つけた。無理矢理埋め込まれたようで、石の周囲からは絶えず血が流れ出ている。その近くのたてがみの一部も、乱暴にむしり取られた跡があった。 「なんてこと」 「どうしました、ビリーさん」 怒りに表情を歪めるビリーの肩を、用心しながら近づいてきたティルーナが叩いた。彼女の後ろには、やはりシュリンメルトを警戒しているアイルとベリアが続いている。ビリーは表情を変えないまま、無言でシュリンメルトの首筋を指さした。 「あれはまた酷いもんですね〜。でも、引っこ抜いてあげようにも、なんかあの・・・・シュリンメルトですか? 触ったらまた暴れ出しそうですしね〜」 「でも、彼がこんなふうになっているのは、たぶんこの石のせいなんですよ。他に変わったところは見られませんし」 「じゃあ、あの石をとにかくぶっ壊して、馬の体から引きずり出してやればいいのか」 さらりと簡潔に言いはなったアイルに、ビリーは渋面を向ける。 「それは、まぁそうですけど・・・・そう簡単には」 「私がやってみます!」 ビリーの言葉を遮ったのは、意外にもふわふわな桃色の髪をなびかせて真剣な顔をしているベリアだった。彼女は一切の詠唱を行わないまま、胸の前に両手を構える。手の内に、明るい光が現れた。 「ヴィヒヒィ・・・・」 至近距離で霊力の高まりを感じたからか、シュリンメルトがまた身じろぎをし始めた。すばやく四人から距離を置き、次に向かい合ったときには、また最初の興奮状態と同じようになってしまっていた。 「いきますよー」 けれど、ベリアは一切それを気にせず、手の内に浮かんでいる光を両手でぎゅっと握りしめた。途端、シュリンメルトの首筋、ちょうど石の埋め込まれた辺りから紅蓮の炎が迸る。シュリンメルトの絶叫が響き渡った。 「フラヴァー!!」 「大丈夫ですよ。滅多に使われませんけど、ベリアちゃんの炎の扱いはプロ級なんですから〜」 ビリーとティルーナは、炎が消えると同時にその場に横倒しになったシュリンメルトに駆け寄った。ティルーナがちらりと後ろを見やれば、普段はほとんど使わない人外の力を行使し、疲弊してしまったベリアをアイルが励ましていた。 倒れ伏すシュリンメルトの傍らに膝をついて、ビリーはそっと首筋を撫でた。ベリアの炎は本当にあの石だけを粉々に破壊してくれたようで、血は流れていたが、熱でただれた皮膚や焼けこげたたてがみなどは見あたらなかった。 「フラヴァー、フラヴァー」 『・・・・ああ、気分がいい。あの忌々しい石が、壊されたのか』 「うん、ベリアさんが炎の力で」 『あの行使の仕方は、セーレーン族を思い出させる。まったく、つくづく現世とずれている町だ』 シュリンメルトは一度赤い瞳をまぶたで隠し、数秒してまた開いた。そして、驚くほどしゃきっとした様子で立ち上がる。 『ビリー、乗れ』 「へ?」 『あの・・・・腹立たしいではとうてい済まされない、いっそ百度死んでこいと言いたくなるような腐った魔術師に報復しに行くのだ。おそらくまだ、この町の長の家にいるだろう』 「でも、なんで僕が君と一緒に? 上手く乗れるかも分からないし、第一足手まといだよ」 ビリーは泣きそうになりながらも、最後まではっきりと答えた。ティルーナもアイルもベリアも、一座の少年たちも、まるでシュリンメルトと人のように会話をするビリーを、ぽかんとした表情で眺めていた。 『いや。お前がいれば、自分はまたそう簡単にあの魔術師の暗示にもかからないだろう。お前のことも危険にさらすことになるが、まぁどうにかなる』 「ど、どうにかって、案外フラヴァーでアバウトなんだね・・・・」 『とにかく行くぞ。乗れ』 「はいはい」 そう言って小さくため息をつきながら、ビリーは足を折り曲げて高さを調節してくれたシュリンメルトに礼を言いつつ、その背にまたがった。ふわふわと手触りの良いたてがみの一部を握って、しっかりと両腿でシュリンメルトの背を挟む。 「そ、れじゃあティルーナさん、アイルさん、ベリアさん! 僕は先に・・・・」 行ってきますー、とすでに駆け出したシュリンメルトの背から、そんな言葉が聞こえてきた。 正気に戻ったらしいシュリンメルトの姿を見て、アイルは身震いした。あのよくわからない石のせいで感情を爆発させていたときもだったが、もともとの威圧感が計り知れない。そんな相手の背に躊躇無くまたがったビリーは、もう役立たずの落ちこぼれとは言えなかった。 「あの暴れ馬に・・・・ビリーが?」 そう思ったのは、やはり一座の少年たちも同じだったようで、呆然とシュリンメルトの走り去った方向を見つめている。ティルーナたちは彼らを一瞥し、そっと顔を見合わせた。そして、彼らを放っておいて、シュリンメルトとビリーのあとを追うことに決めた。 |